一万? 十万? ひょっとしてもっと?
答える事ができずに、ただ無言で視線を泳がせる美鶴。ユンミはため息をついた。
「ここまで甘ちゃんだと、怒る気も起きないわね」
「すみません」
「謝りゃいいってもんでもないでしょうっ」
美鶴は黙って瞳を閉じた。
わからない。わからないよ。自分はどうすればいいの? 何がいけなかったの? どうしてこんな事になってしまったの?
頭が混乱して何も答えが出てこない。ただひたすら面詰だけが溢れ出てくる。
私が悪い。悪いのは私。全部私。私の責任。
霞流さんに襲われて、突き飛ばしたら霞流さんは頭に怪我をして、血は止まらなくって体温も下がってて、痛そうで、苦しそうで、でも病院行くのは嫌だって。どうしてかというと実はクスリに手を出していて、病院に行くとそれがバレる。バレれば霞流さんは逮捕される。でもこのままだと霞流さんは死んじゃうかもしれない。でも闇医者に頼れるほどお金は無い。
一生懸命頭の中を整理しようとしているところへ、誰かの携帯が鳴った。咄嗟に足元を見たが、美鶴の物ではなかった。聞き覚えの無い音なので当たり前。じゃあ誰の?
見ると、ユンミがジャラジャラと携帯を取り出す。ゴテゴテに着飾られた携帯を操作し、慌てて立ち上がった。
「やっだぁ、忘れてたぁ」
それまでの切迫した雰囲気など嘘であったかのような甘ったるい声で独り言を呟き、いそいそと扉へ向う。そうしてチラリとだけ振り向く。
「ちょっと出てくるから、逃げんじゃないわよ」
命令口調でそう告げ、美鶴が何かを言う前に外へ出て行ってしまった。
友達、かな?
ボーッと見送る。
こんな時なのに。
瞬きをして、閉じた扉を見つめる。
なんだか、嬉しそうだった。こんな時なのに、メール見て楽しそうだったな。
友達かな? それとも、彼氏? あ、彼女、ではないよな。
霞流さんがこんな状態になってる時なのに。
「慎ちゃんの知らない時のアタシが慎ちゃんのモノではないのと同じ」
霞流さん以外にも、親しい相手がいるって事なのかな? 霞流さんの腕に抱きついたり、抱擁したり、キスしたりするみたいに。
男女の関係って、そういうモンなのかな? 一途に追いかけるのなんて、鬱陶しいだけなのかな?
でも、聡や瑠駆真や金本緩は真っ直ぐだ。
重そうだがところどころ錆びていて大の大人が体当たりをすれば外れてしまいそうな、あまり頑丈そうには見えない扉を通して、場違いなほどに明るい声が聞こえてくる。だがそれも、やがては聞こえなくなった。ユンミは部屋から離れてしまったようだ。
ユンミの態度を薄情だと罵る権利は、自分には無いような気がする。そもそもこのような状況を作り出したのは自分なのだ。ユンミは巻き込まれただけ。
ユンミさんがいなかったら、今頃はあの寒い建物の隅でオロオロとしていただけなのかもしれないし。
改めて己の無力さを痛感する。
闇医者だって、ひょっとしたらユンミさんには払えるくらいのお金はあるのかもしれない。あんなお店に出入りしているくらいだもん。あのお店は入店料や席料がいるって霞流さんは言ってた。飲み物代だってきっと私なんかが想像できないくらいの値段なんだろう。それくらい払えるユンミさんなら、法外な治療費だって払えるかもしれない。
でもユンミさんは、闇医者に頼る気は無いらしい。
どうして?
メールを見ていそいそと出て行く姿を思い浮かべる。
法外なお金を払ってまで霞流さんを助ける気は無いって事なのかな? 薬物の事だって、霞流さんが捕まるのを恐れているような事を言いながら、でも自分が見つかるのも困る、みたいな言葉もチラッと言ってたし。本当は霞流さんが捕まる事よりも、それによって自分までが捕まるのが嫌だっていうのが本音なのかもしれない。あの様子だと、ユンミさんもクスリを使用しているんだろうし。
慎ちゃんが死んじゃう、なんて叫びながらあんなに動揺してたのに。
ふと、轟音に包まれた妖艶な世界を思い浮かべる。霞流にウィッグを取られて無様に尻餅をついた女性を嘲嗤う周囲。直前までは同じ仲間として一緒に踊り合っていた仲だったはずだ。
「アタシと一緒に居る時さえこっちを見ていてくれればいいの」
そういう、世界だという事か?
一途に想う事など、ただ煩わしいだけなのだろうか? 聡や瑠駆真が真っ直ぐに私を見てくれても私がその想いを受け入れられないように、霞流さんやユンミさんにとってもまた、そんな想いなど目障りなだけなのだろうか?
でも、別に私は、聡や瑠駆真が目障りだなんて、そんなふうに思った事は一度も。
瞳を閉じる。
煩わしいだとか、邪魔なだけだとか、さんざんひどい事を、美鶴はあの二人に言い続けていたような気がする。
そもそも、美鶴だって同じようなものだったのではないか?
もう二度と人は好きにはならない。誰も信用しない。他人なんてアテにはしない。見下すだけの存在だ。
「立ち直るどころか、傷ついたまま捻くれてやがる」
聡の声が耳に痛い。
押し倒されてキスをされて、好きだと叫ばれた。まだ、下町のボロアパートに住んでいた頃の話だ。聡と再会して、まだ数日しか経っていなかった頃の事。外は、いつの間にか春の雨だった。
聡も瑠駆真も、どんな気持ちだったのだろうか?
今、私がここで霞流さんと二人っきりでいるなんて知ったら、二人はどう思うだろう?
霞流さんの事が好きだって言っても、二人はちっとも諦める気配は見せない。聡なんかは、あんなキザな男はやめろだなどと言う。
霞流さんの事を、良くは思っていない。そのうえ、霞流さんが薬物に手を出している人だなんて知ったら、聡は、二人はどう思うだろう?
注射器を見つめる。
こんなモノを、霞流さんはよく打つのだろうか。クスリの使用方法なんて、注射以外にも吸い込むとかっていろいろあると思うんだけど、霞流さんは直接注射しちゃうんだ。注射なんて痛いのに、自分で刺しちゃうんだろうか?
「痛みは和らぐはず」
痛みが取れれば苦しみも和らぐ。それが霞流さんにとって、一番良いことなのだろうか?
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